2006年03月15日

マティーニで乾杯

雨。
微かな風にもたなびくその雨は、雨というよりはむしろ夜霧に近い。その夜霧の中で注意深く探さなければ見落としてしまいそうなほど弱々しく灯る明り。その明りが主張するのは一軒の小さなバー。男は一つ短く溜め息をもらしてから、そのバーの古ぼけた木製の扉を押し開いた。

「バーテンさん、ま、マティーニを」

店に入るなり、目線と僅かな手の動きだけでカウンター席へといざなわれた男は、席につくと同時にされたおしぼりで手を拭いながら、唯一知っているカクテルの名を口にする。

「...」

店員は一人、客はカウンター席の男一人のこの店で声が聞こえていないはずはない。
しかし店員の視線は今男におしぼりを渡したはずだが既にロック用の氷を作る手元に固定されており、一糸乱れぬオールバックの横顔はあたかも蝋人形の如く凍り付いている。

「あの、バーテンさん?」

男が店員の所作に些か気後れしながらも再度おずおずと話しかけると、店員は顔を上げずに囁やいた。

「私どもバーテンダーはこの仕事に誇りを持って居ります」

低く抑揚の少ない声だが、決して聞き流されることのないようなそんな声だった。

「はあ」

言葉の意味を図りかねている男の生返事を聞いて、2秒ほど瞑目してから顔を上げ、男にこう言い放つ。

「お客様はプレスリーにラブミーテンを歌えとリクエストして彼が歌うと?」

店員は疑問符のところで器用に片方の眉だけを上げると、そのまま男を見つめる。
その試すような眼差しに男はようやく自らの失策に気がついた。雲間から差し込む日の光にすがる信者のような心持ちで、男は小さな詫びと注文をやり直した。

「ああ、失礼しました。では、バーテンダーさん、マティーニを頂けますか?」

「かしこまりました」

「僕、実はこーゆーお店初めてなんですよ」

「お酒はあまり召し上がらないので?」

「いえ、普段は専ら屋台で日本酒ってクチでして、洋酒はほとんど口にしません」

「なるほど、それでマティーニですか」

「どういうことでしょう?」

「つまり、Tryマティーニだと」

「そういうつもりはなかったのですが」

「まさか、渡来マティーニ?」

「違います」

「では、普段日本酒しかお飲みにならないお客様にどういう心境の変化が?」

「とても言いにくいことなのですが」

「これは失礼しました。長年この仕事をしておりますと、声でお客様がなにか言いたいことがあるのか分かるような心持ちになることがごさいます。私、お客様の声をそのように感じてしまったようです。いやはや、精進が足りません」

「あ、いえそんなことないです。確かに言いにくいことなんですけど、実はここに来てもし、バーテンダーさんが話しやすい人だったら、ちょっと聞いて貰いたいことがあったんです」

「私は合格ですか?」

「はい。あの、聞いて貰えますか?」

「私でよろしければ喜んで」

「実は僕には...」

「なるほど、それでマティーニですか」

「凄い。もう分かったんですか?」

「つまり、出家して仏門に入りたいと?」

「もしかして、如来マティーニとか言いたいのですか?違います。お恥ずかしい話なのですが」

「なるほど、それでマティーニですか」

「まだ何も言ってません」

「つまり、泣きたい夜もあると?」

「Cryマティーニじゃありません。実はですね」

「つまり、坂口安吾だと?」

「無頼マティーニってなんですか。あのですね」

「♪さくらーふぶーきのー」

「サライマティーニって、泣けませんよ。もう、いい加減にして下さい」

「まあまあ、そんな怖い顔をしないで下さいませ。さ、できました。これを呑めば自然と笑みがこぼれるでしょう」

「つまり、笑いマティーニだと?」

「お客様は察しがいい」

「うれしくありません。ではいただきます。あ、確かにおいしいです。この辛口が胸に沁みます」

「通常のレシピに私のアレンジを加えてあります。つまり・・・」

「辛いマティーニですね?」

「その通りです」

「僕はどうやら足を踏み入れては行けないところにきてしまったようです」

「と、いいますと?」

バーテンダーは片方の眉を上げて疑問符を表現した。どうやら癖らしい。男は自然と口の端が上がるのを感じながらも、カクテルピンのオリーブを口に運んでゆっくりと咀嚼してからこう言った。

「つまり、地雷マティーニです」
posted by なりっと at 22:00| 東京 ☀| Comment(6) | TrackBack(1) | たまには昔の話を | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんなバーテンさんがいたら・・・。
つらいマティーニです。
(からいとつらいは同じ漢字なのでまぎらわしい!
って、漢字に言えって。)
Posted by colortail at 2006年03月16日 11:17
>カラーさん
なるほど。カラーさんはこのバーテンダー苦手なのですね?
つまり、嫌いマティーニですね?
Posted by なりっと at 2006年03月16日 23:40
それはとんでもない「貰いマティーニ」でしたね
Posted by こづつみ at 2006年03月20日 04:11
>こづつみ親分
うわ、なんて時間に起きてるのですか。早朝にも程があります。
つまり、早いマティーニですね?
Posted by なりっと at 2006年03月20日 06:19
すごく精進してるようで「偉いマティーニ」ですね。
Posted by クレマム at 2006年03月31日 09:26
>クレマムさん
精進というか消沈してます。
つまり、暗いマティーニです。
Posted by なりっと at 2006年04月10日 22:00

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